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最終更新日 2014/02/06 (木) 05:23

目次

〔抜き書き〕暦関係 『唐・日本における進朔に関する研究』

suchowan氏曰く、

『唐・日本における進朔に関する研究』(2014/01/17 00:00)より

暦の会の岡田会長に見せていただきました。

科研費研究「日本古代の時間制度・観念と初期陰陽道に関する研究」の
成果のひとつということで、代表者は細井さんという方のようですが、
実質 wagoyomi.info の竹迫忍さんの研究成果ではないかな。

現時点でアクセス可能な文献は、おそらく全部確認しているでしょうから
決定版というべき。今後改訂が入るとすれば、金石文や木簡などからの
情報くらいではないでしょうか。

観象暦の期間(807-821)は正元暦で計算しているようです。

『唐・日本における進朔に関する研究』の朔閏表(2014/01/24 00:00)より

『日本暦日原典』や『二十史朔閏表』は史実に近いか否かとは別の観点で標準的に
参照され、世の中には、それらを前提として変換された日付が流通していますから、
『日本暦日原典』や『二十史朔閏表』の方をデフォルトのままにし、標題の朔閏表は
デフォルトの年号検索パスには置かないことにしました。

実装との差分―『唐・日本における進朔に関する研究』より(2014/01/25 00:00)

△合否のみの問題で朔閏表に影響なし
*標題の朔閏に修正
※標題の朔閏とも『二十史』とも異なる修正
 下記リストの内、無印は『二十史』のまま
(『二十史』は陳垣『増補二十史朔閏表』)

(表10)
*弘仁11年(820)2月 No.がふられていないが朔を修正。

唐代の暦日・進朔一覧
 武徳元年(618)   『二十史』は大業暦で計算。
              戊寅暦は翌年からなのでそのままでよいのでは?
 垂拱4年(688)2月 臨月計算で合否を「×」としているが、文献では1月朔と3月朔のみ判明。
              その間隔は59日なので「×」とした根拠が不明。
△垂拱4年(688)3月 文献と一致しているのに合否を「×」としている。
*長壽元年(692)12月 隣月計算で進朔となるので合否は「×」とすべき。
※開元7年(719)正月 隣月計算で不進朔となるので合否は「×」とすべき。
              『冊府元亀』の誤記か?12月の日数が31日になる。
※寶應元年(762)8月 『舊唐書』では当月朔45己酉、翌月朔13丁丑で日数が28日となる。
              『舊唐書』の当月朔は44戊申の誤記ではないか?
 貞元6年(790)9月 『二十史』の通りでないと8月の日数が31日になる。
*元和8年(813)5月 観象暦の定数が不明のため、『二十史』とのずれは確定とはいえない。
*元和10年(815)12月 同上
 會昌3年(843)12月 隣月計算で不進朔となるので合否は「○」とすべき。
              『隋唐五代石刻文献』は同年10月では?
 開平元年(907)5月 『二十史』の通りでないと4月の日数が31日になる。

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長生きを心がけるのは君子の第一歩

『管子』匡君 中匡 第十九

【句読】

(…前略…)
明日、管仲朝。
(桓)公曰「寡人願聞國君之信。」
(管仲)對曰「民愛之、鄰國親之、天下信之。此國君之信。」
公曰「善。請問信安始而可?」
對曰「始於爲身、中於爲國、成於爲天下。」
公曰「請問爲身?」
對曰「道血氣、以求長年長心長德。此爲身也。」
公曰「請問爲國?」
對曰「遠舉賢人、慈愛百姓、外存亡國、繼絶世、起諸孤、薄税斂、輕刑罰。此爲國之大禮也。」

【玲案語】

【訓読】

明日、管仲朝す。
(桓)公の曰く「寡人願はくば國君の信を聞かん。」
(管仲の)對へて曰く「民これを愛し、鄰國これを親づけ、天下これを信ず。此れ國君の信なり。」と。
公曰く「善いかな。信は安くんぞ始めて可ならんかを請ひて問はん。」と。
對曰「始めには身を爲し、中(なか)つには國を爲し、成しては天下を爲す。」と。
公曰「身を爲すを請ひて問はん。」
對曰「血氣を道(おさ)め、以て長年・長心・長徳を求む。此れ身を爲すなり。」と。
公曰「國を爲すを請ひて問はん。」
對曰「遠くに賢人を舉げ、百姓を慈愛し、亡國なるものを外存せしめ、絶世を繼ぎ、諸孤を起こし、税斂を薄くし、刑罰を輕くす。此れ國を爲すの大禮なり。」と。

【現代語意訳】

次の日、管仲は桓公にまみえた。
桓公が言うことには「国君の信とは何かを教えて頂きたい。」
管仲が答えて言うことには「人民が君主を敬愛し、隣国が君主と仲良くし、天下が君主を信じる。これを国君の信と言います。」と。
桓公が言うことには「わかりました。では、ちょっとお聞きしたいのですが、信とはどうやって最初に良くすれば良いのでしょうか。」と。
管仲が答えて言うことには「始めに身を為し、中程では国を為し、仕上げには天下を為すことですね。」と。
桓公が言うことには「では、ちょっとお聞きしたいのですが、身を為すにはどうすれば良いのでしょうか。」と。
管仲が答えて言うことには「血気を修養し、それによって、長寿・ゆったりとした心・おおらかな徳を求める。これを身を為すと言います。」と。
桓公が言うことには「では、ちょっとお聞きしたいのですが、国を為すにはどうすれば良いのでしょうか。」と。
管仲が答えて言うことには「遠くにいる賢人も(きちんと)見つけ出して(相応の官職―具体的には天子を輔弼する諫官など―に)取り立て、国民を慈愛し、国を亡ぼすような輩(具体的には天子に取り入って悪政を行う側近や官僚)を外に追放し、断絶した家系を継いでやり、孤児を励まし、税収を薄くし、刑罰を軽くする。これが国を為すの大禮でございます。」と。

【註】

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唐代の死刑に関する規定

2013年の年末は唐代の令(仁井田陞著『唐令拾遺』東京大學出版會)を読んでいました。

古代中国法律史研究というのは、それだけで非常に大きな学問分野を形成しているようです。

ちょっと漢詩に関係しそうだから…と調べ始めた途端に、膨大な学問の蓄積の蟻地獄に引きずり込まれて、進退窮まりました。
そもそも「日本思想大系の『律令』をちょっと見てみようかな…」というような「軽い感覚」で手を出したのが失敗でした。
『唐令拾遺』の分厚さですらビビるのに、『唐令拾遺補』って巨冊も出ている…。
更に最近、かなりまとまった分量の新出史料が出てしまったらしく、専門研究者はエキサイティングな時期らしい…。こりゃマズイ。迂闊に手を出すと大火傷するぞ…。どこで線引きをして撤退するか、思案中です。

さて、その中の死刑に関する規定。

「獄官令」にある死刑に関する規定を読んでいたのですが、役人が好き勝手なことをできないように、裁く側(役人)を規制する制限事項があれこれ書かれています。

「皇帝に死刑の決裁を奏上してはダメな日」の規定だけでも、整理してみたら10箇以上も条件が付いている…。

って…、これだけで8ヶ月くらいは死刑執行できないのに、

例外規定

…だって。

役人が死刑の決定を皇帝に申し出できるタイミングを徹底的に絞り込んで、事実上、なるべく死刑を出さないように工夫しているんですねぇ。

長さ1メートルの棒で背中や尻を60回やら80回もぶん殴られたら、アザができて1ヶ月は寝込みますね、普通は。

いやぁ、中国の文化ってのは、やっぱり凄いね。1200年も前にこんなに進んだ人命尊重の法律を整えているんだから…。

その頃、日本では、(坊さんや豪族・貴族は別として)東国地方の農民などはまだ、ごく普通に竪穴住居に住んでいましたとさ。

以下、抜き書き。

■『唐令拾遺』獄官令第三十 從立春至秋分不得奏決死刑 【貞觀】

◆九甲【貞觀】 從立春至秋分、不得奏決死刑、其大祭祀及致齋、朔望、上下弦、二十四氣、雨未晴、夜未明、斷屠日月及假日、並不得奏決死刑。

→試読:立春從り秋分に至るまで、死刑を決すを奏するを得ず。其の大祭祀、及び齋を致す、朔望、上下弦、二十四氣、雨未だ晴れざる、夜未だ明けざる、斷屠の日月及び假の日、並びに死刑を決すを奏するを得ず。

■『唐令拾遺』獄官令第三十 從立春至秋分不得奏決死刑 【開元七年】【開元二十五年】

◆九乙【開元七年】【開元二十五年】 諸決大辟罪、官爵五品以上、在京者、大理正監決、在外者、上佐監決、餘並判官監決。從立春至秋分、不得奏決死刑。若犯惡逆以上及奴婢、部曲殺主者、不拘此令。其大祭祀及致齋、朔望、上下弦、二十四氣、雨未晴、夜未明、斷屠月日及假日、並不得奏決死刑。在京決死囚、皆令御史、金吾監決。若囚有冤枉灼然者、停決奏聞。

○引據

(中略)

二、『唐律・斷獄』「立春後不決死罪」條疏議、『宋刑統・斷獄』同上依『獄官令』、從立春至秋分、 不得奏決死刑、違者徒一年。若犯惡逆以上及奴婢、部曲殺主者、不拘此令。其大祭祀及致齋、朔望、上下弦、二十四氣、雨未晴、夜未明、斷屠月日及假日、並不得奏決死刑。「其所犯、雖不待時、若於斷屠月」、謂正月、五月、九月、「及禁殺日」、謂毎月十直日、月一日、八日、十四日、十五日、十八日、二十三日、二十四日、二十八日、二十九日、三十日、雖不待時、於此月日、亦不得決死刑。

→試読:『獄官令』に依るに、立春從り秋分に至るは、死刑を決すを奏するを得ず、違ふ者は一年の徒。惡逆以上を犯す、及び奴婢・部曲の主者を殺すの若くんば、此の令に拘らず。其の大祭祀、及び齋を致す、朔望、上下弦、二十四氣、雨未晴、夜未明、斷屠の月日、及び假日は、並びに死刑を決すを奏するを得ず。「其の犯す所、時を待たざると雖も、斷屠の月の若くんば」は、謂ゆる正月・五月・九月、「及び禁殺の日」は、謂ゆる毎月の十直の日、月の一日・八日・十四日・十五日・十八日・二十三日・二十四日・二十八日・二十九日・三十日、此の月日に時を待たざると雖も、亦た死刑を決すを得ず。

■『唐令拾遺』雜令第三十三 斷屠

◆七【開元七年】【開元二十五年】 諸毎年正月、五月、九月、斷屠。

→試読:諸の毎年正月、五月、九月は、屠を斷ず。

○引據

(中略)

二、『唐律・雜律』「立春後不決死刑」條疏議、『宋刑統・雜律』同上「若於斷屠月」、謂正月、五月、九月。「及禁殺日」、謂毎月十直日、月一日、八日、十四日、十五日、十八日、二十三日、二十四日、二十八日、二十九日、三十日。雖不待時、於此月日、亦不得決死刑。……其正月、五月、九月有閏者、『令』文但云「正月、五月、九月、斷屠」、即有閏者、各同正月、亦不得奏決死刑。

→試読:「斷屠の月の若くんば」は、謂ゆる正月・五月・九月なり。「及び禁殺の日」は、謂ゆる毎月十直の日、月の一日・八日・十四日・十五日・十八日・二十三日・二十四日・二十八日・二十九日・三十日なり。此の月日に時を待たざると雖も、亦た死刑を決すを得ず。……其の正月・五月・九月に閏有るは、『令』文の但に云ふ「正月、五月、九月、屠を斷ず」、即ち閏有るは、各々正月に同じく、亦た死刑を決すを奏するを得ず。

以下は『故唐律疏議』から…

『故唐律疏議』卷第三十斷獄 凡二十條

496 諸立春以後、秋分以前決死刑者、徒一年。其所犯雖不待時、若於斷屠月及禁殺日而決者、各杖六十。待時而違者、加二等。

【疏】議曰、依『獄官令』「從立春至秋分、不得奏決死刑。」違者、徒一年。若犯「惡逆」以上及奴婢、部曲殺主者、不拘此令。其大祭祀及致齋、朔望、上下弦、二十四氣、雨未晴、夜未明、斷屠月日及假日、並不得奏決死刑。其所犯雖不待時、「若於斷屠月」、謂正月、五月、九月、「及禁殺日」、謂毎月十直日、月一日、八日、十四日、十五日、十八日、二十三日、二十四日、二十八日、二十九日、三十日、雖不待時、於此月日、亦不得決死刑、違而決者、各杖六十。「待時而違者」、謂秋分以前、立春以後、正月、五月、九月及十直日、不得行刑、故違時日者、加二等、合杖八十。其正月、五月、九月有閏者、令文但云正月、五月、九月斷屠、即有閏者各同正月、亦不得奏決死刑。

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漢字の同じ字が反對の意味を持つて居る場合がある。

雛/鳥の子⇔おほとり(鳳)想像上にしても大鳥?
躋/のぼる ⇔ 墜つ
軼/なくなる ⇔ あふれる
離/はなれる ⇔ つく、つらなる
雰/惡い氣 ⇔ めでたい氣
靦/はぢない樣 ⇔ はぢる樣

このような字を研究した書物に葉鍵得著『〔中國語文叢刊〕古漢語字義反訓探微』(臺灣學生書局,2003.9)がある。

教わったことメモ。2013年8月31日。漢字字体辞典編輯プロジェクトMLより。

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〔抜き書き〕辯圓(圓爾、聖一国師)将来『白氏文集』のこと

戸崎哲彦氏「南宋淳祐九年劉欽序劉怡堂輯註『增廣註釋音辯唐柳先生集』四十五巻12行本考」(『島大言語文化―島根大学法文学部紀要言語文化学科編』33号、島根大学、2012-10-30)より抜き書き。

東福寺開山の入宋僧辯圓(1202-1280、後に圓爾)の法孫大道一以(1292-1370)「普門院經論章疏語錄儒書等目録」(文和二年1353)(64)が三百三十九部一千餘巻を録する中に

『白氏文集』十一冊;『韓文』十一冊,不具;『柳文』九冊,不具

と見える。辯圓自撰の『三教典籍目録』(弘安3年1280)は佚して伝わらないが、この蔵書は法嗣圓然の新収した二十二部が混在している以外は辯圓の将来したものであるという(65)。そこで『柳文』は、辯圓が将来した可能性が高く、そうならば辯圓は仁治二年(1241)に帰国しているから、音辯本(1249年)よりも早く伝来した南宋刻本である。書名『柳文』は恐らく題簽にあった略称であろう。また、虎関師錬(1278-1346)は嘉元二年(1304)に東福寺に住して辯圓の蔵書を実見しており(66)、

蓋(圓)爾師歸時,將来來經數千卷,見今普門之書庫,内外之書充棟焉。

と、その多さに感嘆する。


(64) 東京大学史料編纂所『大日本古文書・家わけ第20・東福寺文書之1』(東京大学出版会 1983年、p1l6)。
(65) 木宮泰彦『日本古印刷文化史』(冨山房1932年、再販1965年、p159)、森克己『新訂日宋貿易の研究』(勉誠出版 2008年、p157)。
(66)『元亨釋書』(元亨二年1322)巻7(浮禪3之2)「慧日山辯圓」(『(新訂増補)國史大系』吉川弘文館1965年、p1l5)。

以下メモ:

玲云:「弘安3年」、原文「安3年」、脱「弘」字歟。今補。

師弟関係で言えば、辯圓→圓然→大道一以。東福寺は臨済宗東福寺派大本山。京都にある。

で、辯圓が宋から将来(仁治二年(1241)に帰国)した書物の目録が『三教典籍目録』だが、これは佚書。

辯圓の弟子圓然がそのコレクションに22部の書物を追加した。

22部の書物を追加した後の状態で、圓然の弟子である大道一以(すなわち辯圓の孫弟子)がリスト化したのが『普門院經論章疏語錄儒書等目録』(文和二年1353)。

そこに「『白氏文集』十一冊」とあるという。
十一冊で何巻なのかはわからないが、宮内庁書陵部藏那波本『白氏文集』は十九冊本である。う~ん…七十一卷本ではなかったかもしれないなぁ。

ところで、何をどうすると、このようなデータを探し出せるのか。
大日本古文書の索引を使ったのだろうことはわかる。
また、当該人物の伝記に当るのも自然な所作だろう。
気になるのは戸崎先生は、註65をどうやって見つけ出したのか、ということである。
『國史大辭典』に記載があったものか。(『國史大辭典』は未確認。)

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上代特殊仮名遣いの文字一覧

橋本進吉「古代國語の音韻に就いて」より、「萬葉假名類別表」。

空山氏入力データを元に、青空文庫版を比校したが、互いに底本が違い、入力基準も異なるとは言え、どうもおかしい。一覧の字数に差がある。

そこで、橋本進吉博士著作集4『國語音韻の研究』(岩波書店 昭和25年8月25日第一刷)を引っ張り出して修正を施した。

文字はUnicodeベースで区別して、岩波の全集で用いられている字形に合わせた。

例えばSJISで表現できる「」「」ではなく、Unicodeでないと表現できない「」「」にしてある。

また、Ext.B字形も使用しているので、Unicodeの、Ext.B範囲までフォローしたフォントを使わないと一部、読めない字形がある。

これを加工して吉村氏校訂版の『万葉集』などに適用するための置換テーブルに仕立てる場合は、同義字形を増補しないとダメだろう。

補足:

全集版「古代國語の音韻に就いて」の「萬葉假名類別表」には「・」の意味が明示的に示されていないようだが、「音仮名」と「訓仮名」を区切って示すための符号である。

愛哀埃衣依・榎可-愛荏得 (ア行・エ)
延曳睿叡遙要緣裔・兄柄枝吉江 (ヤ行・エ)
支岐伎妓吉棄弃枳企耆祇祁・寸杵服來 (甲類・キ)
藝岐伎儀蟻祇𡺸(甲類・ギ)
歸己紀記忌幾機基奇綺騎寄氣旣貴癸・木城樹 (乙類・キ)
疑擬義宜 (乙類・ギ)
祁計稽家奚鷄雞谿溪啓價賈結・異 (甲類・ケ)
牙雅下夏霓 (甲類・ゲ)
氣開旣穊概慨該階戒凱愷居擧希・毛食飼消笥 (乙類・ケ)
宜義皚㝵碍礙偈・削 (乙類・ゲ)
古故胡姑祜枯固高庫顧孤・子兒小粉籠 (甲類・コ)
胡吳誤虞五吾悟後 (甲類・ゴ)
許己巨渠去居擧虛據莒興・木 (乙類・コ)
碁其期語馭御 (乙類・ゴ)
蘇蘓宗素泝祖巷嗽・十麻磯追-馬 (甲類・ソ)
俗 (甲類・ゾ)
曾層贈增僧憎則賊所諸・其衣襲膐彼苑 (乙類・ソ)
叙存罇鋤序茹 (乙類・ゾ)
刀斗土杜度渡妬覩徒塗都圖屠・外砥礪戶聰利速門 (甲類・ト)
度渡奴怒 (甲類・ド)
止等登鄧騰縢臺苔澄得・迹跡鳥十與常飛 (乙類・ト)
杼縢藤騰廼耐特 (乙類・ド)
怒弩努 (甲類・ノ)
能乃廼・笶箆 (乙類・ノ)
比毘卑辟避譬臂必賓嬪・日氷檜負飯 (甲類・ヒ)
毘毗妣弭寐鼻彌弥婢 (甲類・ビ)
非斐悲肥彼被飛祕・火乾簸樋 (乙類・ヒ)
備眉媚縻・傍 (乙類・ビ)
幣弊𡚁蔽敝平鞞覇陛反返遍・部方隔重邊畔家 (甲類・ヘ)
辨鼙謎便別 (甲類・ベ)
閇閉倍陪杯珮俳沛・綜瓮缶甕缻(瓦缶)經戶 (乙類・ヘ)
倍每 (乙類・ベ)
美彌弥瀰弭寐湄民・三參御見視眷水 (甲類・ミ)
微未味尾・箕實身 (乙類・ミ)
賣咩謎綿面馬・女 (甲類・メ)
米每梅瑇妹昧睌・目眼海-藻 (乙類・メ)
毛 (甲類・モ)
母 (乙類・モ)
用庸遙容欲・夜 (甲類・ヨ)
余與豫餘譽預已・四世代吉 (乙類・ヨ)
漏路露婁樓魯盧 (甲類・ロ)
呂侶閭廬慮稜勒里 (乙類・ロ)

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『白氏文集』花房番号と詩題の対応表

那波本卷四まで。

花房番号 詩題

1 賀雨
2 讀張籍古樂府
3 孔戡
4 凶宅
5 夢仙
6 觀刈麥
7 題海圖屛風
8 羸駿
9 廢琴
10 李都尉古劔
11 雲居寺孤桐
12 京兆府新栽蓮
13 月夜登閣避暑
14 初授拾遺
15 贈元稹
16 哭劉敦質
17 答友問
18 雜興三首1
19 雜興三首2
20 雜興三首3
21 宿紫閣山北村
22 讀漢書
23 贈樊著作
24 蜀路石婦
25 折劔頭
26 登樂遊園望
27 酬元九對新栽竹有懷見寄
28 感鶴
29 春雪
30 高僕射
31 白牡丹
32 贈内
33 寄唐生
34 傷唐衢二首1
35 傷唐衢二首2
36 問友
37 悲哉行
38 紫藤
39 放鷹
40 慈烏夜啼
41 鷰詩示劉叟
42 采地黄者
43 初入太行路
44 鄧魴張徹落第
45 送王處士
46 村居苦寒
47 納粟
48 薛中丞
49 秋池二首1
50 秋池二首2
51 夏旱
52 諭友
53 丘中有一士二首1
54 丘中有一士二首2
55 新製布裘
56 杏園中棗樹
57 蝦蟆
58 寄隱者
59 放魚
60 文柏牀
61 潯陽三題1(幷序) 廬山桂
62 潯陽三題2 湓浦竹
63 潯陽三題3 東林寺白蓮
64 大水
65 續古詩十首1
66 續古詩十首2
67 續古詩十首3
68 續古詩十首4
69 續古詩十首5
70 續古詩十首6
71 續古詩十首7
72 續古詩十首8
73 續古詩十首9
74 續古詩十首10
75 秦中吟十首1(幷序) 議婚
76 秦中吟十首2 重賦
77 秦中吟十首3 傷宅
78 秦中吟十首4 傷友
79 秦中吟十首5 不致仕
80 秦中吟十首6 立碑
81 秦中吟十首7 輕肥
82 秦中吟十首8 五弦
83 秦中吟十首9 歌舞
84 秦中吟十首10 買花
85 贈友五首1(幷序)
86 贈友五首2
87 贈友五首3
88 贈友五首4
89 贈友五首5
90 寓意詩五首1
91 寓意詩五首2
92 寓意詩五首3
93 寓意詩五首4
94 寓意詩五首5
95 讀史五首1
96 讀史五首2
97 讀史五首3
98 讀史五首4
99 讀史五首5
100 和答詩十首序
101 和答詩十首1 和思歸樂
102 和答詩十首2 和陽城驛
103 和答詩十首3 答桐花
104 和答詩十首4 和大觜烏
105 和答詩十首5 答四皓廟
106 和答詩十首6 和雉媒
107 和答詩十首7 和松樹
108 和答詩十首8 答箭鏃
109 和答詩十首9 和古社
110 和答詩十首10 和分水嶺
111 有木詩八首1(幷序)
112 有木詩八首2
113 有木詩八首3
114 有木詩八首4
115 有木詩八首5
116 有木詩八首6
117 有木詩八首7
118 有木詩八首8
119 歎魯二首1
120 歎魯二首2
121 反鮑明遠白頭吟
122 青冢
123 雜感
124 新樂府序
125 新樂府1 七德舞
126 新樂府2 法曲
127 新樂府3 二王後
128 新樂府4 海漫漫
129 新樂府5 立部伎
130 新樂府6 華原磬
131 新樂府7 上陽白髮人
132 新樂府8 胡旋女
133 新樂府9 新豐折臂翁
134 新樂府10 太行路
135 新樂府11 司天臺
136 新樂府12 捕蝗
137 新樂府13 昆明春水滿
138 新樂府14 城鹽州
139 新樂府15 道州民
140 新樂府16 馴犀
141 新樂府17 五弦彈
142 新樂府18 蠻子朝
143 新樂府19 驃國樂
144 新樂府20 縛戎人
145 新樂府21 驪宮高
146 新樂府22 百鍊鏡
147 新樂府23 青石
148 新樂府24 兩朱閣
149 新樂府25 西涼伎
150 新樂府26 八駿圖
151 新樂府27 澗底松
152 新樂府28 牡丹芳
153 新樂府29 紅線毯
154 新樂府30 杜陵叟
155 新樂府31 繚綾
156 新樂府32 賣炭翁
157 新樂府33 母別子
158 新樂府34 陰山道
159 新樂府35 時世粧
160 新樂府36 李夫人
161 新樂府37 陵園妾
162 新樂府38 鹽商婦
163 新樂府39 杏爲梁
164 新樂府40 井底引銀甁
165 新樂府41 官牛
166 新樂府42 紫毫筆
167 新樂府43 隋堤柳
168 新樂府44 草茫茫
169 新樂府45 古冢狐
170 新樂府46 黑潭龍
171 新樂府47 天可度
172 新樂府48 秦吉了
173 新樂府49 鵶九劔
174 新樂府50 采詩官

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陳鴻「長恨歌傳」・白居易「長恨歌」

南宋紹興本『白氏長慶集』巻十二による。花房番号0596番→音声ファイルは[こっち]

検索でここへたどり着いた学生向けの注意

国文学科・日本文学科でのレポートやゼミ発表で『白氏文集』の本文を挙げる時は、普通は、那波本※を使うはずです。
※那波道圓校、元和四年刊古活字本『白氏文集』

ところが、以下に挙げている本文は、那波本を底本にはしていません。
ということで、以下にある本文をそのままレジュメに貼り付けただけでは、指導の先生に叱られると思います。
図書館で那波本を確認し、そちらに合わせて校正してから利用するようにしましょう。

那波本(の詩の部分)は、『白氏文集歌詩索引(書名は「歌詞」ではない点に注意)に影印されています。
那波本全体の影印は四部叢刊に入っていますが、一部、勝手に書き換えている所があるので注意。
四部叢刊本を使う場合は、『白居易研究講座 第六巻 白氏文集の本文』、p230~に那波本と四部叢刊本の異動部分の一覧表があるので、それをコピーしておくと便利かと思います。
最近、下定雅弘・神鷹徳治編『那波本白氏文集―宮内庁所蔵』(全4冊、勉誠出版、2012/02)が出版されました。
運良く大学の図書館が所蔵している場合は、これを使うのが良いでしょう。

■五一ウ~
長恨歌傳 前進士陳鴻撰
開元中、泰階平、四海無事。玄宗在位歳久(玄字闕畫)、倦於旰食宵衣。政
無小大、始委于右丞相。深居遊宴、以聲色自娛。先是元獻皇
后、武淑妃皆有寵、相次即丗。宮中雖良家子千數、無可悅目者。
上心忽忽不樂。時𣫭歳十月、駕幸華清宮。内外命婦、熠燿景
從。浴日餘波、賜以湯沐。春風靈液、澹蕩其間。上心油然、若有顾遇、
左右前後、粉色如土。詔髙力士潛搜外宮。得弘農楊玄琰女于壽
邸(弘字玄字共闕畫)。旣笄矣。鬒髮膩理、纎穠中度、舉止閑冶、如漢武帝李夫人。
別䟽湯泉、詔賜澡瑩。旣出水。體弱力微(弱左破損)、若不任羅綺、光彩煥發、
轉動照人。上甚悅。進見之日、奏霓裳羽衣曲以導之(裳破損)。定情之夕、授
金釵鈿合以固之。又命戴歩揺、垂金璫。明年𠕋爲貴妃、半后服
用。繇是冶其容、敏其詞、婉孌萬態、以中上意。上益嬖焉。時省風
九州、泥金五岳。驪山雪夜、上陽春朝、與上行同室、宴專席、寢專
■五二オ~
房。雖有三夫人、九嬪、二十七丗婦、八十一御妻、暨後宮才人、樂府
&M000441;女(&M000441;者伎之誤刻歟)、使天子無顧眄意。自是六宮無復進幸者。非徒殊豔尤態
致是、蓋才智明慧、善巧便佞、先意希旨、有不可形容者。叔父
昆弟、皆列在淸貫、爵爲通侯、姉妹封國夫人、富埒王室、車服
邸第、與大長公主侔、而恩澤勢力則又過之。出入禁門不問、京
師長吏爲側目。故當時謡詠有云「生女勿悲酸、生兒勿喜歡。」、又
曰「男不封侯女作妃、看女却爲門上楣。」。其人心羨慕如此。天寶末(末字字形模糊)、
兄國忠盜丞相位、愚弄國柄。及安禄山引兵嚮闕、以討楊氏爲
辭、潼關不守。翠華南幸、出咸陽、道次馬嵬亭。六軍徘徊、持
戟不進。從官郎吏伏上馬前、請誅錯以謝天下。國忠俸氂纓
盤水、死於道周。左右之意未快、上問之、當時敢言者、請以貴
妃塞天下怒。上知不免、而不忍見其死。反袂掩靣、使牽之而去。
蒼黃展轉、竟就絶於尺組之下(竟字闕畫)。旣而玄宗狩成都(玄字闕畫)、肅宗受禪
■五二ウ~
靈武。明年、大兇歸元。大駕還都、尊玄宗爲太上皇(玄字闕畫)、就養南官(官者宮歟)、
遷于西内。時移事去、樂盡悲來。𣫭至春之日、冬之夜、池蓮夏
開、宮槐秋落。棃園弟子、玉琯發音、聞霓裳羽衣一聲、則天顔
不怡、左右歔欷。三載一意、其念不衰。求之魂夢、杳不能得。適
有道士自蜀來、知上皇心念楊妃如是。自言「有李少君之術」、玄宗(玄字闕畫)
大喜、命致其神、方士乃竭其術以索之、不至。又能遊神馭氣、出
天界、没地府以求之、不見。又旁求四虛上下、東極天海、跨蓬壷、
見最髙仙山。上多樓闕、西廂下有洞戸、東嚮、闔其門、署曰王
妃太眞院(王者玉歟)。方士抽簪叩扉、有雙童女出應門。方士造次未及
言、而雙鬟復入。俄有碧衣侍女又至、詰其所從。方士因稱唐天
子使者、且致其命。碧衣云「玉妃方寢、請少待之。」于時雲海沈沈、
洞天日晩。瓊戸重闔、悄然無聲。方士屏息斂足、拱手門下。久之、
而碧衣延入。且曰「玉妃出。」見一人冠金蓮、披紫綃、佩紅玉、曳鳳舄、左
■五三オ~
右侍者七八人。揖方士、問皇帝安否、次問天寶十四年已還事。
言訖、憫黙。指碧衣取金釵鈿合、各㭊其半、授使者曰「爲謝
太上皇、謹獻是物、尋舊好也。」方士受辭與信、將行、色有不足。
玉妃固徴其意(徴闕畫)、復前跪致詞、「請當時一事、不爲他人聞者、驗
於太上皇。不然、恐鈿合金釵、負新垣平之詐也。」玉妃茫然退立、
若有所思、徐而言之曰「昔天寶十載、侍輦避暑驪山宮。秋
七月、牽牛織女相見之夕。秦人風俗、是夜張錦繡、陳飲食、樹瓜
華。焚香于庭、号爲乞巧、宮掖間尤尚之。夜殆半、休侍衛於東
西廂、獨侍上。上凭肩而立、因仰天感牛女事、密相誓心、願丗丗
爲夫婦。言畢、執手各嗚咽、此獨君王知之耳。」因自悲曰「由此一念、
又不得居此、復墮下界、且結後縁。或爲天、或爲人、決再相見、好
合如舊。」因言「太上皇亦不久人間、幸惟自安、無自苦耳。」使者
還、奏太上皇。皇心震悼、日日不豫。其年夏四月、南官(官者宮歟)晏駕。元
■五三ウ~
和元年冬十二月、太原白樂天自校書郎尉於𥂕厔、鴻與琅邪
王質夫家于是邑。暇日相攜遊仙遊寺、話及此事、相與感歎。
質夫舉酒於樂天前曰「夫希代之事、非遇出丗之才潤色之、
則與時消没、不聞于丗。樂天深於詩、多於情者也。試爲歌
之、如何。」樂天因爲『長恨歌』。意者不但感其事、亦欲懲尤物。窒
亂階、垂於將來也。歌旣成、使鴻傳焉。丗所不聞者、予非開元
遺民、不得知。丗所知者、有玄宗本紀在(玄字闕畫)、今但傳『長恨歌』云爾。
漢皇重色思傾國、御宇多年求不得。楊家有女初長成、養在
深閨人未識。天生麗質難自棄、一朝選在君王側。迴眸一笑百
媚生、六宮粉黛無顔色。春寒賜浴華淸池、温泉水滑洗凝
脂。侍兒扶起嬌無力、始是新承恩澤時。雲鬢花顔金歩揺、
芙蓉帳暖度春宵。春宵苦短日髙起、從此君王不早朝。
承歡侍宴無閑暇、春從春遊夜專夜。後宮佳麗三千人、三千寵
■五四オ~
愛在一身。金屋粧成嬌侍夜、玉樓宴罷醉和春。姉妹弟兄皆列
土(土者國之義也。不士之誤刻。)、可憐光彩生門戸。遂令天下父母心、不重生男重生女。驪宮
髙處入靑雲、仙樂風飄處處聞。緩歌慢舞凝絲竹、盡日君
王看不足。漁陽鞞鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲。九重城闕煙
塵生、千乗萬騎西南行。翠華揺揺行復止、西出都門百餘里。六
軍不發無奈何、宛轉蛾眉馬前死。花鈿委地無人收、翠翹金
雀玉搔頭。君王掩靣救不得、迴看血淚相和流。黃埃散漫風蕭
索、雲棧縈紆登劔閣。峨嵋山下少人行、旌旗無光日色薄。蜀
江水碧蜀山靑、聖主朝朝暮暮情。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴膓
斷聲。天旋日轉迴龍馭、到此躊躇不能去。馬嵬坡下泥土中、
不見玉顏空死處。君臣相顧盡霑衣、東望都門信馬歸。歸
來池苑皆依舊、太液芙蓉未央柳。芙蓉如靣柳如眉、對此
如何不涙垂。春風桃李花開夜、秋雨梧桐葉落時。西宮南苑多
■五四ウ~
秋草、宮葉滿階紅不掃。棃園弟子白髮新、椒房阿監靑娥
老。夕殿螢飛思悄然、孤燈挑盡未成眠(眠字闕畫歟)。遟遟鐘鼓初長夜、
耿耿星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜華重、翡翆衾寒誰與共。悠
悠生死別經年、魂魄不曾來入夢(魂魄共闕畫)。臨邛道士鴻都客、能以精
誠致魂魄(魂魄共闕畫)。爲感君王展轉思、遂敎方士殷勤覓。排空馭氣奔
如電、昇天入地求之遍。上窮碧落下黃泉、兩處茫茫皆不
見。忽聞海上有仙山、山在虛無縹緲閒。樓閣玲瓏五雲起、其中
綽約多仙子。中有一人字太真、雪膚花貌參差是(差字字形近&M079055;)。金闕西廂
叩玉扃、轉敎小玉報雙成。聞道漢家天子使、九華帳裏夢
魂驚(魂闕畫)。攬衣推枕起徘徊、珠箔銀屏邐迤開。雲鬢半偏新
睡覺、花冠不整下堂來。風吹仙袂飄颻舉、猶似霓裳羽衣
舞。玉容寂寞淚闌干、棃花一枝春帶雨。含情凝睇謝君王、
一別音容兩渺茫。昭陽殿裏恩愛絶、蓬萊宮中日月長。迴頭
■五五オ~
下望人寰處、不見長安見塵霧。唯將舊物表深情、鈿合金
釵寄將去。釵留一股合一扇、釵擘黃金合分鈿。但令心似金鈿堅、
天上人間會相見。臨別殷勤重寄詞(殷字闕畫)、詞中有誓兩心知。七月七
日長生殿、夜半無人私語時。在天願作比翼鳥、在地願爲連理
枝。天長地久有時盡、此恨緜緜無絶期。


開元中、泰階 平かにして、四海無事なり。
玄宗 在位 歳久しく、旰食 宵衣に倦む。
政 小大となく、始めて右丞相に委ぬ。
深居遊宴し、聲色を以て自ら娛しむ。
是より先 元獻皇后、武淑妃 皆 寵あり、相次いで丗に即く。
宮中 良家の子 千數ありと雖も、目を悅ばすべき者なし。
上 心 忽忽として樂まず。
時に𣫭歳十月、駕して華清宮に幸す。
内外の命婦、熠燿として景のごと從ふ。
浴日の餘波、賜ふに湯沐を以てす。
春風 靈液、其の間に澹蕩たり。
上 心 油然として、顾遇あるが若きも、左右 前後、粉色 土の如し。
髙力士に詔し潛かに外宮を搜らしむ。
弘農の楊玄琰が女を壽邸に得たり。
旣に笄せり。
鬒髮 膩理、纎穠 度に中り、舉止閑冶にして、漢の武帝の李夫人の如し。
別に湯泉を䟽ち、詔して澡瑩を賜ふ。旣に水を出づ。
體弱く力微にして、羅綺に任へざるが若く、光彩煥發し、轉動して人を照す。
上 甚だ悅ぶ。
進見の日、霓裳羽衣の曲を奏し以て之を導く。
定情の夕、金釵鈿合を授け以て之を固うす。
又命じて歩揺(かんざし)を戴き、金璫(みみかざり)を垂れしむ。
明年𠕋して貴妃と爲し、后の服用を半つ。是に繇(よ)りて其の容を冶(みやびやか)にし、其の詞を敏にし、婉孌萬態、以て上意に中つ。
上 益々嬖す。時に風を九州に省み、金を五岳に泥す。
驪山の雪夜、上陽の春朝、上と行けば室を同じうし、宴は席を專らにし、寢ぬるに房を專らにす。
三夫人・九嬪・二十七丗婦・八十一御妻、暨(およ)び後宮の才人、樂府の伎女ありと雖も、天子をして顧眄の意ならかしむ。
是れ自り六宮復た進幸する者なし。
徒(ただ)に殊豔尤態 是を致せるのみならず、蓋し才智明慧、善巧便佞、意に先だち旨を希ひ、形容すべからざる者あればなり。
叔父昆弟、皆な列せられて淸貫に在り、爵せられて通侯と爲り、姉妹は國夫人に封ぜられ、富は王室に埒(ひと)しく、車服邸第、大長公主と侔(ひと)しく、恩澤勢力は則ち又た之に過ぐ。
禁門に出入すれども問はず、京師の長吏爲に目を側つ。
故に當時の謡詠に云へるあり「女を生むも悲酸する勿れ、兒を生むも喜歡する勿れ。」、又曰く「男は封侯たらず女は妃となる、看よ女は却つて門上の楣となる。」と。
其の人心の羨慕すること此の如し。
 天寶の末、兄國忠は丞相の位を盜み、國柄を愚弄す。
禄山の兵を引いて闕に嚮(む)かひ、楊氏を討つを以て辭と爲すに及び、潼關守らず。
翠華南に幸し、咸陽を出で、道は馬嵬亭に次(やど)る。
六軍徘徊し、持戟進まず。
從官郎吏 上の馬前に伏し、錯を誅し以て天下に謝せんことを請ふ。
國忠 氂纓、盤水を俸じて、道の周(ほとり)に死す。
左右の意未だ快からず、上之を問ふ、當時の敢言する者、貴妃を以て天下の怒りを塞がんこを請ふ。
上免がれざるを知る、而かも其の死を見るに忍びず。
袂を反し靣を掩ひ、之を牽いて去ら使む。

(以下作業中)


漢皇色を重んじて傾國を思ひ、御宇多年求むれども得ず。
楊家に女あり初めて長成し、養はれて深閨に在り人未だ識らず。
天生の麗質 自(おのづか)ら棄て難し、一朝選ばれて君王の側(かたはら)に在り。
眸(ひとみ)を迴らして一笑すれば百媚生じ、六宮(りくきう)の粉黛 顏色無し。
春寒くして浴を賜ふ華淸の池、温泉 水滑かにして凝脂を洗ふ。
侍兒 扶け起こせども嬌(けう)として力無し、始めて是れ新たに恩澤を承くる時。
雲鬢花顏 金歩揺、芙蓉 帳暖かにして春宵を度る。
春宵 短きを苦しみ日髙けて起き、此より君王早く朝せず。
歡を承け宴に侍して閑暇無し、春は春遊に從ひ夜は夜を專らにす。
後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身に在り。
金屋 粧成つて嬌として夜に侍し、玉樓 宴罷んで醉うて春に和す。
姉妹弟兄 皆土を列し、憐むべし光彩 門戸に生ず。
遂に天下父母の心をして、男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ。
驪宮髙き處 靑雲に入り、仙樂風に飄つて處處に聞ゆ。
緩歌謾舞 絲竹を凝らし、盡日 君王看れども足らず。
漁陽の鞞鼓 地を動かし來り、驚破す霓裳羽衣の曲。
▼九重の城闕 煙塵生じ、千乗萬騎 西南に行く。
翠華揺揺として行きて復た止り、西都門を出づること百餘里。
六軍發せず奈何ともする無し、宛轉たる蛾眉 馬前に死す。
花鈿地に委して人の收むる無し、翠翹金雀 玉掻頭。
君王 靣を掩うて救ひ得ず、迴(かへ)り看て血涙相ひ和して流る。
黄埃 散漫として風 蕭索、雲棧縈紆 劔閣に登る。
峨嵋山下 人の行くこと少(まれ)なり、旌旗 光無くして日色薄し。
蜀江 水碧にして蜀山 靑し、聖主 朝朝暮暮の情。
行宮 月を見れば心を傷ましむるの色、夜雨 鈴を聞けば膓斷つの聲。
天旋り日轉じて龍馭を迴し、此に到りて躊躇して去る能はず。
馬嵬 坡下 泥土の中、玉顏を見ず空しく死する處。
君臣 相ひ顧へりみて盡く衣を霑し、東 都門を望み馬に信せて歸る。
歸來 池苑 皆舊に依る、太液の芙蓉 未央の柳。
芙蓉は靣の如く柳は眉の如し。此に對して如何ぞ涙垂れざらん。
春風 桃李 花開く夜、秋雨 梧桐 葉落つる時。
西宮 南苑 秋草多く、宮葉 階に滿ち紅 掃はず。
棃園の弟子 白髮新に、椒房の阿監 靑娥 老ゆ。
夕殿 螢飛んで思ひ悄然、孤燈 挑(かか)げ盡くして未だ眠を成さず。
遟遟たる鐘鼓 初めて長き夜、耿耿たる星河 曙(あ)けんと欲する天。
鴛鴦の瓦 冷やかにして霜華重く、翡翆の衾 寒うして誰と共にせん。
悠悠たる生死 別れて年を經、魂魄 曾て來りて夢に入らず。
▼臨邛の道士 鴻都の客、能く精誠を以つて魂魄を致す。
君王 輾轉の思に感ずるが爲に、遂に方士をして殷勤に覓めしむ。
空を排し氣に馭して奔ること電の如く、天に升り地に入りて之を求むること遍し。
上は碧落を窮め下は黃泉、兩處 茫茫として皆見えず。
忽ち聞く海上に仙山有りと、山は虛無 縹緲の閒に在り。
樓閣 玲瓏として五雲起り、其の中 綽約として仙子多し。
中に一人有り太真と字す、雪膚 花貌 參差として是なり。
金闕の西廂 玉扃を叩き、轉(うた)た小玉をして雙成に報ぜしむ。
聞く道く漢家天子の使と、九華 帳裏 夢魂 驚く。
衣を攬り枕を推し起つて徘徊し、珠箔 銀屏 邐迤(りい)として開く。
雲鬢 半ば偏いて新に睡覺め、花冠 整はず堂を下りて來る。
風は仙袂を吹きて飄颻として舉がり、猶ほ霓裳羽衣の舞に似たり。
玉容 寂寞として涙 闌干たり、棃花 一枝 春 雨を帶ぶ。
情を含み睇(ひとみ)を凝らして君王に謝す、一別 音容 兩つながら渺茫。
昭陽 殿裏 恩愛 絶え、蓬莱 宮中 日月 長し。
頭を迴らして下 人寰を望む處、長安を見ずして塵霧を見る。
唯だ舊物を將つて深情を表し、鈿合 金釵 寄せ將ち去らしむ。
釵は一股を留め合は一扇、釵は黃金を擘(つんざ)き合は鈿を分つ。
但だ心をして金鈿の堅きに似せしめば、天上 人間 會(かなら)ず相ひ見ん。
別れに臨んで殷勤 重ねて詞を寄す、詞中に誓ひ有り 兩心 知る。
七月七日 長生殿、夜半 人無く私語の時。
「天に在つては願くは比翼の鳥と作(な)り、地に在つては願くは連理の枝と爲らん。」
天長く地久しきも時ありて盡(つ)く、此の恨 緜緜として絶ゆる期無からん。

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白居易「秦中吟」

(南宋紹興本『白氏長慶集』による。花房番号0075~0084)

■秦中吟十首〔并序〕
貞元、元和之際、予在長安、聞見之間、有足悲者、因直歌其
事、命爲秦中吟。

▼議婚
天下無正聲、悦耳即爲娯。人間無正色、悦目即爲姝。顏色非相
遠、貧富則有殊。貧爲時所弃、富爲時所趍。紅樓富家女、金
縷繡羅襦。見人不斂手、嬌癡二八初。母兄未開口、已嫁不須臾。
緑窓貧家女、寂寞二十餘。荆釵不直錢、衣上無眞珠。幾廻人欲
聘、臨日又踟蹰。主人會良媒、置酒滿玉壷。四座且勿飮、聽我歌
兩途。富家女易嫁、嫁早輕其夫。貧家女難嫁、嫁晩孝於姑。
聞君欲娶婦、娶婦意何如。

▼重賦
厚地植桑麻、所要濟生民。生民理布帛、所求活一身。身外充
征賦、上以奉君親。國家定兩税、本意在憂人。厥初防其淫、明
勑内外臣。税外加一物、皆以枉法論。奈何歳月久、貪吏得因循。浚
我以求寵、斂索無冬春。織絹未成疋、繰絲未盈斤。里胥迫
我納、不許暫逡巡。歳暮天地閉、隂風生破村。夜深煙火盡、霰
雪白紛紛。幼者形不蔽、老者體無温。悲喘與寒氣、倂入鼻中辛。
昨日輸殘税、因窺官庫門。繒帛如山積、絲絮似雲屯。號爲羨
餘物、隨月獻至尊。奪我身上煖、買尓眼前恩。進入瓊林
庫、歳久化爲塵。

▼傷宅
誰家起甲第、朱門大道邊。豊屋中櫛比、高牆外迴環。累累
六七堂、棟宇相連延。一堂費百萬、欝欝起青烟。洞房温且淸、
寒暑不能忓。高堂虚且逈、坐卧見南山。繞廊柴藤架、夾砌紅
藥欄。攀枝摘櫻桃(玲云。桃字作、木+&M004959;)、帶花移牡丹。主人此中坐、十載爲大官。
厨有臭敗肉、庫有貫朽錢。誰能將我語、問尓骨肉間。豈無窮賤者、
忍不救飢寒。如何奉一身、直欲保千年。不見馬家宅、今作奉誠園。

▼傷友〔又云傷苦節士〕
陋巷孤寒士、出門苦恓恓。雖云志氣在、豈免顏色低。平生同
門友、通籍在金閨。曩者膠漆契、迩來雲雨睽。正逢下朝歸、
軒騎五門西。是時天久隂、三日雨淒淒。蹇驢避路立、肥馬當
風嘶。迴頭忘相識、占道上沙堤。昔年洛陽社、貧賤相提携。
今日長安道、對靣隔雲泥。近日多如此、非君獨慘悽。死生
不變者、唯聞任與黎。〔任公叔、黎逢。〕

▼不致仕
七十而致仕、禮法有明文。何乃貪榮者、斯言如不聞。可怜八九十、
齒堕雙眸昬。朝露貪名利、夕陽憂子孫。挂冠顧翠緌、懸
車惜朱輪。金章腰不勝、傴僂入君門。誰不愛富貴、誰不戀
君恩。年髙須告老、名遂合退身。少時共嗤誚、晩歳多因循。
賢哉漢二踈、彼獨是何人。寂寞東門路、無人継去塵。

▼立碑
勲德旣下衰、文章亦陵夷。但見山中石、立作路旁碑。銘勲
悉太公、叙德皆仲尼。復以多爲貴、千言直万貲。爲文彼何
人、想見下筆時。但欲愚者悦、不思賢者嗤。豈獨賢者嗤、仍
傳後代疑。古石蒼苔字、安知是愧詞。我聞望江縣、麹令撫
惸嫠(玲云。字作、&M000132;+攵/女)。〔麹令名信陵。〕在官有仁政、名不聞京師。身歿欲歸葬、百姓遮路
岐。攀轅不得歸、留葬此江湄。至今道其名、男女涕皆垂。
無人立碑碣、唯有邑人知。

▼輕肥
意氣驕滿路、鞍馬光照塵。借問何爲者、人稱是内臣。朱
紱皆大夫、紫綬或將軍。誇赴軍中宴、走馬去如雲。罇罍溢
九醖、水陸羅八珍。果擘洞庭橘、鱠切天池鱗。食飽心自若、
酒酣氣益振。是歳江南旱、衢州人食人。

▼五弦
淸歌且罷唱、紅袂亦停舞。趙叟抱五弦、宛轉當胷撫。大聲
粗〔音麄〕若散、䬃䬃風和雨。小聲細欲絶、切切鬼神語。又如鵲報
喜、轉作猨啼苦。十指無定音、顛倒宮徴羽。坐客聞此聲、形
神若無主。行客聞此聲、駐足不能舉。嗟嗟俗人耳、好今不
好古。所以緑窓琴、日日生塵土。

▼歌舞
秦中歳云暮、大雪滿皇州。雪中退朝者、朱紫盡公侯。貴有
風雪興、富無飢寒憂。所營唯第宅、所務在追遊。朱輪車馬
客、紅燭歌舞樓。歡酣促宻坐、醉暖脱重裘。秋官爲主人、廷
尉居上頭。日中爲一樂、夜半不能休。豈知閿郷獄、中有凍死囚。

▼買花
帝城春欲暮、宣喧車馬度(玲云。喧喧歟。上字闕口部分。)。共道牡丹時、相隨買花去。貴賤無常價、
酬直看花數。灼灼百朶紅、戔戔五束素。上張幄幕庇、旁織巴籬
護。水酒復泥封、移來色如故。家家習爲俗、人人迷不悟。有一田舍翁、偶
來買花處。仾頭獨長歎、此歎無人諭。一叢深色花、十戸中人賦。

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白居易「與元九書」

(南宋紹興本『白氏長慶集』卷四十五所収。元和十年(815)の作。花房番号1486)

からが詩論。

(第七冊十七丁表~)
與元九書
▼月日。居易白。微之足下。自足下謫江陵至于今。凡枉贈荅詩僅百
篇。毎詩來。或辱序。或辱書。冠于巻首。皆所以陳古今歌詩之
義。且自敘爲文因縁。與年月之遠近也。僕既受足下詩。又諭足下
此意。常欲承荅來旨。粗論歌詩大端。幷自述爲文之意。緫爲一書。
致足下前。累歳已來。牽故少暇。閒有容隟。或欲爲之。又曰思所
陳。亦無出足下之見。臨紙復罷者數四。卒不能成就其志。以至于
今。今俟罪潯陽。除盥櫛食寢外無餘事。因覽足下去通州日所
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(第七冊十八丁表~)
留新舊文二十六軸。開巻得意。忽如會靣。心所畜者。便欲快言。㹥(玲云。往歟。)
往自疑。不知相去萬里也。既而憤悱之氣。思有所洩。遂追就前
志。勉爲此書。足下幸試爲僕留意一省。夫文尚矣、三才各有文。天
之文三光首之、地之文五材首之、人之文六經首之。就六經言、詩又首之。
何者。聖人感人心而天下和平。感人心者、莫先乎情、莫始乎言、莫
切乎聲、莫深乎義。詩者、根情、苗言、華聲、實義。上自賢聖、下至
愚騃、微及豚魚、幽及鬼神、羣分而氣同、形異而情一、未有聲入而
不應、情交而不感者。聖人知其然、因其言、經之以六義、縁其聲、緯之
以五音。音有韻、義有類。韻協則言順、言順則聲易入、類舉則情
見、情見則感易交。於是乎孕大含深、貫微洞密、上下通而一氣泰、
憂樂合而百志熙。五帝三皇所以直道而行、垂拱而理者、掲此以
爲大柄、決此以爲大寶也。故聞「元首明、股肱良」之歌、則知虞道昌矣。
聞五子洛汭之歌、則知夏政荒矣。言者無罪、聞者作戒、言者聞者
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(第七冊十八丁裏~)
莫不兩盡其心焉。▼洎周衰秦興、採詩官廢、上不以詩補察時
政、下不以歌洩導人情。乃至於諂成之風動、救失之道缺。于時
六義始刓矣。國風變爲騷辭、五言始於蘇、李蘇李駱人皆不遇
者、各繫其志、發而爲文。故河梁之句、止於傷別、澤畔之吟、歸于
怨思。彷徨抑鬱、不暇及他耳。然去詩未遠、梗槩尚存。故興離
別則引雙鳧一鴈爲喻、諷君子小人則引香草惡鳥爲比。雖義
類不具、猶得風人之什二三焉。于時六義始缺矣。晉、宋已還、得者
蓋寡。以康樂之奥博、多溺於山水、以淵明之高古、偏放於田園。江、
鮑之流、又狹於此。如梁鴻五噫之例者、百無一二焉。于時六義寖
微矣。陵夷矣。至于梁、陳間、率不過嘲風雪、弄花草而已。噫。風
雪花草之物、三百篇中豈捨之乎。顧所用何如耳。設如「北風其
涼」、假風以刺威虐也。「雨雪霏霏」、以愍征伇也。「棠棣之華」、感華以
諷兄弟也。「采采芣苢」、美草以樂有子也。皆興發於此而義歸
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(第七冊十九丁表~)
於彼。反是者、可乎哉。然則「餘霞散成綺、澄江淨如練」、「離花先
委露、別葉乍辭風」之什、麗則麗矣、吾不知其所諷焉。故僕所
謂嘲風雪、弄花草而已。于時六義盡去矣。▼唐興二百年、其間詩
人不可勝數。所可舉者、陳子昂有感遇詩二十首、鮑魴有感興
詩十五首。又詩之豪者、世稱李・杜之作、才矣奇矣、人不逮矣。索
其風雅比興、十無一焉。杜詩最多、可傳者千餘人。至於貫穿今古、
覼縷格律、盡工盡善、又過於李。然撮其新開安、石壕、潼關吏、
蘆子開、花門之章、「朱門酒肉臭、路有凍死骨」之句、亦不過三四十。
杜尚如此、況不逮杜者乎。僕常痛詩道崩壞、忽忽憤發、或食輟
哺夜輟寢、不量才力、欲扶起之。嗟乎。事有大謬者、又不可一二而
言、然亦不能不粗陳於左右。▼僕始生六七月時、乳母抱弄於書屏下、
有指「無」字「之」字示。僕者、僕雖口未能言、心已黙識。後有問此二字
者、雖百十其試而指之不差。則僕宿習之縁、已在文字中矣。及五六
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(第七冊十九丁裏~)
歳、便學爲詩、九歳諳識聲韻。十五六、始知有進士、苦節讀書。二
十已來、晝課賦、夜課書、間又課詩、不遑寢息矣。以至于口舌成瘡、
手肘成胝、旣壯而膚革不豐盈、未老而齒髮早衰白、瞥瞥然
如飛蠅垂珠在眸子中也。動以萬數、蓋以苦學力文所致。▼又自悲
矣。家貧多故、二十七、方從郷賦。旣第之後、雖專於科試、亦不廢
詩。及授校書郎時、已盈三四百首。或出示交友如足下輩、見皆謂
之工、其實未窺作者之域耳。自登朝來、年齒漸長、閲事漸多、
毎與人言、多詢時務、毎讀書史、多求理道、始知文章合爲時而
著、歌詩合爲事而作。是時皇帝初即位、宰府有正人、屢降璽
書、訪人急病。▼僕當此日、擢在翰林、身是諫官、手請諫紙。啓奏之
外、有可以救濟人病、裨補時闕、而難於指言者、輒詠歌之、欲稍
稍遞進聞於上。上以廣宸聦、副憂勤、次以酬恩獎、塞言責、下以
復吾平生之志。豈圖志未就而悔已生、言未聞而謗已成矣。▼又
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(第七冊二十丁表~)
請爲左右終言之。凡聞僕賀雨詩而、衆口籍籍、已謂非宜矣。聞
僕哭孔戡詩、衆面脉脉、盡不悅矣。聞秦中吟、則權豪貴近者
相目而變色矣。聞樂遊園寄足下詩、則執政柄者扼腕矣。聞宿
紫閣村詩、則握軍要者切齒矣。大率如此、不可遍舉。不相與者、
號爲沽名、號爲詆訐、號爲訕謗。苟相與者、則如牛僧孺之誡焉。
乃至骨肉妻孥、皆以我爲非也。其不我非者、舉不過三兩人。有
鄧魴者、見僕詩而喜、無何而魴死。有唐衢者、見僕詩而泣、未幾
而衢死。其餘則足下、足下又十年來困躓若此。嗚呼。豈六義四始
之風、天將破壞、不可支持耶。抑又不知天之意、不欲使下人之病苦聞
於上耶。不然、何有志於詩者不利若此之甚也。▼然僕又自思關東
一男子耳。除讀書屬文外、其他懵然無知、乃至書畫棊博可以
接羣居之歡者、一無通曉、即其愚拙可知矣。初應進士時、中朝無
緦麻之親、達官無半面之舊、策蹇歩於利足之途、張空拳於戰文
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(第七冊二十丁裏~)
之塲。十年之間、三登科第、名入衆耳、迹升清貫、出交賢俊、入侍冕
旒。始得名於文章、終得罪於文章、亦其宜也。▼日者又聞親友間説、
禮、吏部舉選人、多以僕私試賦判傳爲準的。其餘詩句、亦往往
在人口中。僕恧然自愧、不之信也。及再來長安、又聞有軍使
高霞寓者、欲聘倡妓、妓大誇曰、「我誦得白學士長恨歌、豈同
他妓哉。」由是增價。又足下書云、「到通州日、見江館柱間有題僕詩
者。復何人哉。」又昨過漢南日、適遇主人集衆樂娯他賓、諸妓見
僕來、指而相顧曰、「此是秦中吟・長恨歌主耳。」自長安抵江西三四
千里、凡郷校・佛寺・逆旅・行舟之中、往往有題僕詩者、士庶・僧徒・
孀婦・處女之口、毎毎有詠僕詩者。此誠雕蟲之戲、不足爲多、然
今時俗所重、正在此耳。雖前賢如淵、雲者、前輩如李・杜者、亦未
能忘情於其間哉。▼古人云、「名者公器、不可以多取。」僕是何者、竊時
之名已多。旣竊時名、又欲竊時之富貴、使己爲造物者、肯兼
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(第七冊二十一丁表~)
與之乎。今之迍窮、理固然也。況詩人多蹇、如陳子昂・杜甫、各授
一拾遺、而迍剥至死。李白・孟浩然輩不及一命、窮悴終身。近日
孟郊六十、終試協律、張籍五十、未離一太祝。彼何人哉。彼何人哉。況
僕之才又不逮彼。今雖謫佐遠郡、而官品至第五、月俸四五萬、寒
有衣、飢有食、給身之外、施及家人。亦可謂不負白氏子矣。微之、微
之。勿念我哉。▼僕數月來、檢討囊袠中、得新舊詩、各以類分、分爲
卷首。自拾遺來、凡所適所感、関於美刺興比者、又自武德訖元
和、因事立題、題爲新樂府者、共一百五十首、謂之諷諭詩。又或
退公獨處、或移病閑居、知足保和、吟翫性情者一百首、謂之
閑適詩。又有事物牽於外、情理動於内、隨感遇而形於歎詠者
一百首、謂之感傷詩。又有五言・七言・長句・絶句、自一百韻至兩韻
者四百餘首、謂之雜律詩。凡爲十五卷、約八百首。異時相見、當盡
致於執事。▼微之。古人云、「窮則獨善其身、達則兼濟天下。」僕雖
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(第七冊二十一丁裏~)
不肖、常師此語。大丈夫所守者道、所待者時。時之來也、爲雲龍、
爲風鵬、勃然突然、陳力以出、時之不來也、爲霧豹、爲冥鴻、寂兮
寥兮、奉身而退。進退出處、何往而不自得哉。故僕志在兼濟、行
在獨善、奉而始終之則爲道、言而發明之則爲詩。謂之諷諭詩、
兼濟之志也、謂之閑適詩、獨善之義也。故覽僕詩、知僕之道
焉。其餘雜律詩、或誘於一時一物、發於一笑一吟、率然成章、非平
生所尚者、但以親朋合散之際、取其釋恨佐懽、今銓次之間、未能
刪去。他時有爲我編集斯文者、略之可也。▼微之。夫貴耳賤目、榮古
陋今、人之大情也。僕不能遠徴古舊、如近歳韋蘇州歌行、才麗
之外、頗近興諷、其五言詩、又高雅閑澹、自成一家之體、今之秉筆
者誰能及之。然當蘇州在時、人亦未甚愛重、必待身後、然人貴
之。今僕之詩、人所愛者、悉不過雜律詩與長恨歌已下耳。時之
所重、僕之所輕。至於諷諭者、意激而言質、閑適者、思澹而詞
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(第七冊二十二丁表~)
迃。以質合迃、宜人之不愛也。今所愛者、並丗而生、獨足下耳。然千百
年後、安知復無如足下者出、而知愛我詩哉。故自八九年來、與足
下小通則以詩相戒、小窮則以詩相勉、索居則以詩相慰、同處則
以詩相娯。知吾最要、率以詩也。▼如今年春遊成(玲云。城之省文歟。)南時、與足下馬上
相戲、因各誦新艶小律、不雜他篇、自皇子陂歸昭國里、迭吟逓唱、
不絶聲者二十里餘。樊・李在傍、無所措口。知我者以爲詩仙、不知我
者以爲詩魔。何則。勞心靈、役聲氣、連朝接夕、不自知其苦、非魔而
何。偶同人當美景、或花時宴罷、或月夜酒酣、一詠一吟、不知老之將
至、雖驂鸞鸖、遊蓬瀛者之適、無以加於此焉、又非仙而何。微之、微
之。此吾所以與足下外形骸、脱蹤跡、傲軒鼎、輕人寰者、又以此也。
▼當此之時、足下興有餘力、且與僕悉索還往中詩、取其尤長者、如
張十八古樂府、李二十新歌行、盧・楊二祕書律詩、竇七・元八絶句、
博搜精掇、編而次之、號「元白往還詩集」。衆君子得擬議於此者、
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(第七冊二十二丁裏~)
莫不踊躍欣喜、以爲盛事。嗟乎。言未終而足下左轉、不數月而僕
又継行、心期索然、何日成就。又可爲之歎息矣。▼又僕甞語足下、凡人
爲文、私於自是、不忍於割截、或失於繁多。其間妍蚩、益又自惑。
必待交友有公鑒無姑息者、討論而削奪之、然後繁簡當否、得
其中矣。況僕與足下、爲文尤患其多。己尚病之、況他人乎。今且各纂
詩筆、粗爲卷第、待與足下相見日、各出所有、終前志焉。又不知相遇
是何年、相見在何地、溘然而至、則如之何。微之。微之。知我心哉。▼潯陽
臘月、江風苦寒、歳暮鮮歡、夜長無睡。引筆鋪紙、悄然燈前、有念
則書、言無次第。勿以繁雜爲倦、且以代一夕之話也。微之。微之。知
我心哉。樂天再拜。

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姚崇傳のイナゴ退治

『新唐書』列傳・卷一百二十四・列傳第四十九・姚崇

姚崇さんは、唐の宰相。

則天武后・睿宗・玄宗の三帝に宰相として仕え、玄宗の「開元の治」を補佐した(ことになっている)。

もう一人の宰相である盧懐慎は彼と比較されて無能な宰相として扱われているけど、実はこの人の方が標準的な感性の持ち主だったというのが正しいんだろうな。

姚崇さんてば、「【超】現実主義」なのねん。

『新唐書』は『旧唐書』よりも話題豊富で面白いですな。

小説類からも取材していると言われていて、歴史資料としては『旧唐書』よりも正確性に於いて劣るという評価ですけど。

んで、玄宗帝の治世でのイナゴ退治の話。

開元四年、山東大蝗、民祭且拜、坐視食苗不敢捕。

開元四年、山東に大いに蝗おこり、民は祭り且つ拜し、苗を食ふを坐視して敢えて捕えず。

崇奏「詩云『秉彼蟊賊、付畀炎火。』漢光武詔曰『勉順時政、勸督農桑。去彼螟蜮、以及蟊賊。』此除蝗誼也。且蝗畏人易驅、又田皆有主。使自救其地、必不憚勤。請夜設火、坎其旁、且焚且瘞、蝗乃可盡。古有討除不勝者、特人不用命耳。」
乃出御史為捕蝗使、分道殺蝗。

崇奏して「詩に云はく『彼の蟊賊を秉(と)り、畀(あた)へて炎火に付す。』と。漢の光武が詔に曰く『勉めて時政に順ひ、農桑を勸督し、彼の螟蜮を去り、以て蟊賊に及べ。』と。此れ蝗を除くを誼(うべな)う也。且つ蝗は人を畏るるために驅り易く、又た田は皆な主有り。自から其の地を救わしめば、必ずや勤めを憚らざるべし。請う、夜に火を設け、其の旁に坎(あな)をほり、且つ焚き且つ瘞(うず)め、蝗すなわち盡くす可し。古より討除に勝(た)へざる者あり、ただ人は用ゐず、命のみ。」と。
乃ち御史を出して捕蝗使と為し、道を分ち蝗を殺す。

汴州刺史倪若水上言「除天災者當以德。昔劉聰除蝗不克而害愈甚。」
拒御史不應命。

汴州の刺史、倪若水、上言して「天災を除くは當に德を以てすべし。昔、劉聰は除蝗すれども克ちえずして害は愈々甚だし。」と。
御史を拒みて命に應ぜず。

崇移書誚之曰「聰僞主、德不勝祅、今祅不勝德。古者良守、蝗避其境、謂脩德可免、彼將無德致然乎。今坐視食苗、忍而不救、因以無年、刺史其謂何。」
若水懼、乃縱捕、得蝗十四萬石。

崇は移書して之を誚(せ)めて曰く「聰は僞主にして、德は祅に勝らず。今は祅、德に勝らず。古は良守、蝗其の境を避く、德を脩めて免るべきの謂は、彼れ將に德無く然るを致さんや。今食苗するを坐視し、忍んで救はず、因つて以て年(みのり)無し、刺史の其の謂いは何ぞ。」と。
若水懼れ、乃ち捕るを縱(ゆる)し、得るところの蝗は十四萬石なり。

時議者喧譁。
帝疑、復以問崇。
對曰「庸儒泥文不知變。事固有違經而合道、反道而適權者。昔魏世山東蝗、小忍不除、至人相食。後秦有蝗、草木皆盡、牛馬至相噉毛。今飛蝗所在充滿、加復蕃息。且河南・河北家無宿藏、一不穫則流離、安危繫之。且討蝗縱不能盡、不愈於養以遺患乎?」
帝然之。

時に議して喧譁する者あり。
帝疑ひて復た以て崇に問ふ。
對へて曰く「庸儒は文に泥(なづ)みて變を知らず。事は固より經に違ひて道に合し、道に反して權に適する者有り。昔、魏の世の山東に蝗あり。小忍して除かず、人の相ひ食らふに至る。後秦に蝗有り。草木皆な盡き、牛馬の毛を相ひ噉(くら)ふに至る。今、飛蝗の所在は充滿す。加ふるに復た蕃息す。且つ河南・河北の家は宿藏なし、一たび穫ざれば則ち流離し、之れ安危に繫るなり。且つ討蝗の縱へ盡くす能はざるとも、養ひて以て患ひを遺すに愈(まさ)らずや。」
帝之を然りとす。

黄門監盧懷慎曰「凡天災安可以人力制也。且殺蟲多、必戻和氣。願公思之。」
崇曰「昔楚王呑蛭而厥疾瘳、叔敖斷虵福乃降。今蝗幸可驅、若縱之、穀且盡、如百姓何。殺蟲救人、禍歸於崇、不以諉公也!」

黄門監、盧懷慎の曰く「凡そ天災、安んぞ人力を以て制す可けんや。且つ蟲を殺すこと多く、必ずや和氣戻るべし。願う、公之を思へ。」と。
崇の曰く「昔、楚王、蛭を呑みて厥疾すれども瘳(い)え、叔敖は虵を斷じて福乃ち降る。今、蝗は幸ひに驅る可く、若し之れ縱(ほしい)ままに穀すら且つ盡くさば、百姓の如き何するぞ。蟲を殺し人を救ひて、崇に禍ひ歸さば、以て公に諉(かこつけ)ざる也。」と。

蝗害訖息。

蝗害、訖息す。

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以下、気が向いたら増補する(かも)


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